グローバル社会における「建築的思考」の可能性

田町の建築会館で「ショッピングモール」とローカル・シティというシンポジウムを聞いてきました。

パネリスト:
中村竜治(建築家・中村竜治建築設計事務所主宰)
岩佐明彦(建築計画学者・新潟大学准教授)
芝田義治(建築家・久米設計設計本部建築設計部主査)
関谷和則(建築家・竹中工務店東京本店設計部設計主任)
モデレータ:
南後由和(社会学者・東京大学大学院情報学環助教)
藤村龍至(建築家・藤村龍至建築設計事務所代表・建築文化事業委員)
コメンテーター:
若林幹夫(社会学者・早稲田大学教授)


アトリエ系、組織系、ゼネコン系の建築家、研究者が、それぞれの立場から現代社会の状況における建築の可能性を議論するというセッティングです。

先日行われた「タワーマンション」とグローバル・シティには参加できませんでしたが、今日は総括的な話もあり、だいたい骨格はつかめました。


今回、話を聞きながら考えていたのは「建築的経験」に対する「視点」についてです。

芝田義治さんの「リハモナイズ」というキーワードは、グローバル社会と建築との関係を考える「視点」として非常に面白いものです。

まあ、とりあえずリハモナイズの例を聴いて見ましょう。

 曲 when The Saints Go Marchin' In(聖者の行進)

リハモナイズは、ひとことで言えば単調なコード進行に「動き」や「憂い」などをあたえるため、少し変化を加えることです。実際に聞いてみるとよくわかりますね。私個人は高校時代からバンドを組んでもう15年になるので多少感覚が違うかもしれませんが、楽器の演奏をあまりやらない方だと、「音楽的経験」として「なんだか物悲しい曲だなぁ」とか「おお、元気が出てくるぞ」という感じだと思います。

たぶん「建築的経験」に対して建築家がすることは「リハモナイズ」なのかなというメッセージと受け取りました。
たとえば、まちなみ景観に関して「デザインコード」を分析する研究がありますが、その研究成果「コード」をそのまま他のまちなみに当てはめれば「何となくどっかでみたことのある、ある程度整っている」まちなみができるだけです。「コード」自体が壊れてしまったまちなみをどうするかは次の問題としてありますが、景観を考える中でベースとなる部分をしっかりと共有できるしくみが欲しいところです。五十嵐太郎氏は「美しい都市、醜い都市」のなかで、日本橋の上の高速道路を地下に付け替える5000億円の費用があれば、地域のアイデンティティにとってかけがえのない建築の耐震補強や保存修復を5000件できると述べています。まちなみをつくる「コード」はそのようなかけがえのない建築などがまとっている「物語」であり、まちなみ景観を育てていくことの本質はそういう運動なのかもしれません。


もうひとつ、面白かったキーワードが岩佐明彦さんの「インドア郊外」です。
今回のテーマでもある「ショッピングモール」とローカル・シティというお題には、「既存中心市街地」と「ショッピングモール」という対立構造で見る視点があります。その対立構造に対して「インドア郊外」は「車でそのままいければ好きなほうにいくよ。シームレスにつながればいいし。どっちも別に建築やまちとして見てないよ。インテリアとして居心地がよければいいよ」という今の消費者の感覚を見るための「視点」であると思いました。SCが既存中心市街地の顧客を奪っているのは事実でしょうが、SC同士も都市間競争の渦中にありますし、ネット商取引の動きが年々拡大していることを考えると、既存中心市街地も「居心地の良さ」や「アクセスのシームレス化」をまちの魅力とどうつなげていくかがポイントと考えます。


中村竜治さんと関谷和則さんのプレゼンでは、建築作品のデザインに興味を持ちました。

建築家のコンセプトや、ゼネコンの一貫したコーディネートによって、グローバル社会の経済的な原理による「単純化」とちがう「価値」が生まれている良い例です。ただし、建築でメシを食うという視点では全然違いますね。


今回のシンポジウムを聞いて改めて感じましたが、「タワーマンション」と「ショッピングモール」は都市や地域の特異点で成立しているのであり、これから本当に問題になるのは、「ふつうのまち」「雑居ビル」だということです。この問題意識を持ち続けながら、建築にかかわるスタンスとして「今まさに動いている社会」を相手にするのか、「その先にある未来」を模索するのかは、それぞれの考え方で選んでいくのだと思います。